プロフィール
三栖右嗣氏(みすゆうじ)記念館は敷地内のシンボルツリーや新河岸川沿いの桜並木など、サクラとはなじみの深い美術館です。スタッフがブログを通じて、さまざまお知らせを提供し、さくらのように愛される美術館づくりをめざしています。
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スタッフブログ

ヤオコー川越美術館三栖右嗣記念館スタッフによるブログです。

三栖右嗣の足音 Vol.3-1


 三栖右嗣は2010年4月18日に、83歳の誕生日まであと7日を残して世を去りました。享年は82歳ということになります。その長い画業を、これまであまた書かれた評論その他の文章を通じてご紹介したいと思います。当時の文章を加工せずそのまま読むことで、時代背景や、描かれたばかりの絵を見たときの人々の高揚した気持ちを、そのまま味わっていただけるのではないかと考えました。語られた膨大な言葉の海の中から立ちあがってくる三栖絵画の真髄を堪能なさってください。

 

三栖右嗣作品選集1945~1975 より  監修・文  村木明

三栖右嗣の人と作品

 三栖右嗣は、1927年(昭和2年)厚木市に生まれたが、のち埼玉県和光市に移りそこに住み着いたまま今日にいたっている。父は機械技師で頑固一徹なところがあったが、母は愛情細やかで思いやりがあり人びとから慕われていたという。早逝した長兄は、音楽をたしなみ小説を書く文学青年であった。次男の彼は、兄の影響を受け早くから絵に親しんだ。父に似ず二人の芸術家志望の息子を抱えた母は、「茄子の木に瓜がなった」と人に語っていた。他に二人の姉がいるが、いずれも近隣に嫁いでいる。やがて画家となる彼は、仕事における頑固一徹さを父から譲り受け、生活人としての人情に篤い寛大な性格を母から受け継いでいた。

 1945年東京芸大に入り、安井教室に学んだ。東京芸大入学は母の口添えによるもので、父は渋々それを承知したという。在学中からすでに抜群の才能を見せ、同期の浮田克躬や本山唯雄らは彼に一目置いていた。45年の「デッサン」、46年の「エチュード」、47年の「ひなげし」は在学中の作品である。51年の卒業制作(卒業が2年遅れていたのは卒業制作を出さず、好きな制作に夢中になっていたからだ)は、「自画像」と「ある友の肖像」の2点で、すでに画家の並々ならぬ才能のきらめきをのぞかせている。二点ともほとんど一昼夜で一気に描き上げたというから、彼の旺盛な筆力のほどがうかがわれる。ある友の肖像当館蔵ブログ用.JPGひなげし12f.JPG

 1955 年の「室内」は、師の安井曾太郎や硲伊之助の主宰する一水会展に初出品した作品で、会場を訪れた小磯良平は暫く彼の作品の前に佇んだという。確かなデッサン力と手堅い画面構成のこの室内画は、後年の小磯良平の作品を連想させるものがある。56年の「窓辺」は、今は亡き母の在りし日の肖像で、椅子に腰をかける横向きの母を描いた作品は、温厚で気品に満ちたその人柄を的確に捉えている。57年の「マリー」(ちなみにモデルとなったお嬢さんは、三栖右嗣画伯の姪御さんで、ご本名はマリイちゃんだそうです:美術館註)、58年の「外川」はそれに続く作品で、絵具は薄塗りで温和な画風を感じさせるが、その非凡な写実力はいずれの作品にもはっきりと読みとれる。マリーブログ用.JPG室内当館蔵ブログ用.JPG

 が、60年代に入って抽象の嵐が押し寄せ、画壇が抽象絵画に傾いていくと、写実主義を生きてきた彼は制作の意欲を失い、また抽象一辺倒への反撥から作品発表を中止してしまった。彼の沈黙はそのまま10年間続くが、その間の61年に描いたデッサンが残っている。写真図版の示すように、卓越したデッサン力を彼は修得していた。デッサン2.JPGデッサン1961年.JPG

画壇への再登場

 1960年代の抽象・前衛の波が去って、リアリズム絵画の復権が問われ出した70年頃より、彼は再び絵筆をとってキャンバスに向うようになった。60年代の沈黙の10年間はさる映画会社の宣伝部に籍を置き、作品発表こそはしなかったが折りに触れて絵は描いていたし、いまひとたび画壇に復帰する機会を待っていた。70年代の声をきくと、ようやくにして訪れたリアリズム復活の声に刺激され、彼は猛然と描き出した。

 折しも日本の美術市場は空前の絵画ブームのきざしを見せ、日本洋画壇は新鋭作家の出現を待望していた。そうした状況下にあった1971年に、彼は銀座の中央美術画廊と日本橋の柳屋画廊で続けて個展を開き、さらにその年日本洋画壇新鋭作家展にも出品するという精力的な仕事振りを見せ、リアリストの新鋭として注目を集めた。彼のかっての同僚たちはすでに画壇の中堅にあってそれぞれに人気を得ていたが、彼はそれには目もくれず、マイ・ペースで制作に励んだ。

 描き出すと、物を見る感も筆力もすぐ戻ってきた。彼は一般の人気作家のようにパターンとなるような作品か描かず、一作毎に新しい造形をめざした。作品は少しずつ売れたが、取材費はそれを上回った。それでも彼は納得のいく作品を、なによりも絵を描こうとして、来る日も来る日もキャンバスに向った。

北海道シリーズ

 その頃の制作には、北海道に取材したものが多い。小樽、シャコタン、雪の原野を多数描いている。また木曽路に取材した作品もある。その大半は風景で、手堅い写実力とダイナミックな画面構成で、リアリズム絵画を追求した作品は、その強靭なマチエールに支えられて迫力ある画面となっている。茶褐色を基調に、雪の風景では白を効果的に使って、北海道の風土性をよく生かしている。

 1972年には、前年に描いた「シャコタンの漁村」が安井賞展に入選したのをはじめ、銀座の飯田画廊企画の「形真展」に出品し、秋には同画廊で≪北海道シリーズ≫の個展を開いた。そのほか新世代展にも出品し、前年に引き続き精力的な仕事を続けた。そんな彼のひたむきな制作振りを励まし、彼の大成を祈っていたのは、すでに80歳をこえて病がちな彼の母であった。父はすでに亡くなり、母子水入らずの二人暮らしで、彼はいわゆる世間的気苦労はなく、制作に専念することができた。

 個展で発表した「オホーツク」「木曾」「街角(小樽)」「新聞と雑草」などは好評を得た。こうして画壇の一角に名を知られたとはいえ、無所属作家が認められるには、日本画壇の特殊事情だけに手間どった。72年の暮、彼はヨーロッパとアメリカに旅行し、フィラデルフィアではアンドリュー・ワイエスに会った。オホーツク当館蔵ブログ用.JPG

リンゴ園シリーズ

 新作の発表ごとに新しいテーマに取り組んでいこうと考えた彼は、「北海道シリーズ」の個展を終えた1972年の秋から信州通いをはじめた。「リンゴ園シリーズ」の構想が浮んで、リンゴを描きはじめたのである。リンゴといえば一般的にはセザンヌをはじめとする多くの画家によって試みられている卓上のリンゴ、つまり静物画を連想する。

 が、彼は大自然の中のリンゴを考えた。それは彼がつねに人間の肌合いを感じさせる生活の中に作品の発想を求めてきたというその制作態度に結びついている。彼が取材に時間をかけ、納得いくまで物を凝視し続けるのはそのためだ。だからといって、彼は決して自然を写生しているわけではない。大自然の中にある生命の躍動、生きているものの声をよみとろうとするからだ。そうした対象の実在をいかに画面に表現するかに、彼の造型思考はあった。その一つの帰結が、風景の中の静物と云う発想であった。

 「二つのリンゴのある風景」「雪の消える頃」「リンゴ園」「枯草の上のリンゴ」「リンゴのある風景」などはその代表的作品で、1973年6月の個展にまとめて発表された。それは単なる風景でも静物でもないユニークな「リンゴ園シリーズ」であった。またリンゴの背景の雑木林の処理に一時ワイエスの影響が現われたのはその頃のことだ。雪の消える頃ブログ.JPG

 シリーズはこのあと、「海のシリーズ」「日本の四季シリーズ」と続いていくことになります。評論家、村木明先生の明解な解説でお送りしております。どうぞ次回をお楽しみに。byひらい